アラフィフ女子の終活ブログ

40代後半独身女子の、終活という名の日々の記録

万歩計で健康維持を叶えようと思う

歩数計を買った。今年の目標「運動しよう!」を意識してのことだ。

私の生活は、意識しないとほぼ1日体を動かさない。デスクワークだし車通勤だし職場内の移動もエレベーター使用なので、日中、まず座りっぱなし。自宅へ帰ってからも似たようなものだ。そしてその生活がもう10年近く続いている。

これではいけないという思いは、ずっとある。健康的な老後のためにも、ロコモ予防は積極的に取り組みたいと常日頃考えているし、そもそも、体を動かすこと自体、嫌いではないのだ。

なので、結構、いろいろやってきた。スイミングやジムに通ったり、筋トレ器具を買ったり、ラジオ体操やストレッチを日課にしてみたり。でも、結局どれも長続きしなかった。最短は筋トレの3日、最長記録はスイミングの1年だ。結局の所、面倒くさくなってやめてしまうのだ。

でも、やっぱりこれではいけない。今回、逆流性食道炎が再燃増悪して強く思った。

 

これまでの経験から、私には、何かを中断してやるトレーニングは長続きしない。それでは何もできないではないかと思うが、なんとか普段通りの生活で負荷だけ増やすことができないかと考えた。その結果が、歩数計である。

私の職場は大学病院だ。広い、そして、高い。私は主に2階から7階を行ったり来たりする。これを利用しない手はない。上下移動をすべて階段にすることにしたのだ。その可視化が歩数計というわけだ。

こんな誰でもやっているような案だが、思いついた高揚感で私はすぐに歩数計を購入。つけた日からプラン実行した。そのせいで歩かなかった日の記録を取ることを忘れ、実際どれほど歩数が増えたかはわからなくなってしまったが。でも頑張っている。初日の歩数は5070歩だ。


1日1万歩まではまだまだ遠い。おまけに、日頃の運動不足を実感するほどに、階段を上がりきったあとの息切れと足プルプルが酷い。まずは息切れしなくなるまで続けることを目標にしたい。

ちなみに、始めた運動は超・原始的だが、購入した歩数計も超・アナログだ。今はAppleWatchや最新アプリなどハイテク歩数計がたくさんある。でも、初心者の私に必要なのはほかに何の誘惑もないシンプルさだ。このタニタ歩数計が、自分終活チームの新たな一員です。

老いと猫と、例の。

猫を飼っている。4匹いる。団地から今の一軒家に越した小学校入学時から、我が家には常に猫がいた。なので、今のコが何代目なのかもうよくわからない。わからないけれども、どの子にも思い入れがあるし、数え切れないほどの思い出がある。たくさん見送ったしたくさん泣いた。それと同じくらいたくさん笑顔ももらった。みんなノラだったり迷い猫だったコたちだ。

この先何年、猫と暮らせるのだろうかと考える。自分が死んだ後、世話を引き継いでくれる人がいる間はいい。問題はそうじゃなくなったときのことだ。私は独身・実家暮らし。このまま順調に独身生活が続く場合、飼うことを止めなければならない日が必ず来る。本音は、最後の最後まで猫と暮らし、猫を胸に抱きいて逝きたい。でもそれは究極のエゴだ。

人のエゴで動物たちが不幸になることが私の大嫌いなことだから、それだけは避けなければと思う。

同時に、少しでも長く、1匹でも多く、行くあてのないこたちと一緒にいたいと思う。


実は、その点で私は、かのサービスならそれが叶うのかもしれないと思った。自分が高齢になったときも預かれるようなコがいるのなら、ぜひ手をあげたいからだ。

保護猫に関わる事業を持続可能にするには、間口を広げることや安定的な資金調達は不可欠だと思う。かのサービスはその面で評価できる部分もあると思うのだ。

けれども『ねこホーダイ』というネーミングにこの企業の理念が透けて見えた気がした。少なくとも、最終的にこのプロジェクト名でgoを出したお偉方たちは、猫を利益の道具としてしか見ていないのだろう。吐き気がする。

猫のことを真剣に考えてこの事業に関わった人もいるかと思う。どうかその人たちの努力が無駄にならないことを願いたい。そうして、猫も人も、老いても幸せに暮らせる取り組みに少しでも繋がることを期待している。

 

ミミ ♀ 推定12歳 気の強いおばあちゃん

 

しっぽ ♂ 推定11歳 永久少年

 

左)ルパン ♂ 推定7歳 3本足のひょうきん者

右)リョーマ ♂ 推定7歳 甘え下手な3本足

逆流性食道炎が辛すぎて薬漬けになってしまった

病院に予約を入れたものの、毎日が辛くて手あたり次第に薬を飲んでいる。

 

もともと服用しているファモチジンH2ブロッカーと呼ばれる、胃酸の分泌を抑制する薬。

出典:沢井製薬

通常は、1日2回朝夕食後なんだけれど、午後になると症状が耐え難くなるようになった2週間前から、朝食後と夕食前に飲むようにした。

が、効かない。


次に手を出したのが、パンシロンキュア。これは、M1ブロッカーという胃酸分泌抑制作用と、今出ている胃酸を中和する作用、そして胃粘膜保護作用があるという市販薬。

jp.rohto.com

これを、午前中と午後の食間にファモチジンに加えて飲みだした。

が、効きが弱い。飲んだ直後は何となくよくなった気がするのだけれど、しばらくするとすぐまた胸やけ症状がでてくる。


その次に手を出したのが、サクロンQ。これは局所麻酔薬で、簡単に言うと麻酔で胃腸の運動を抑えるもので市販薬。

www.eisai.jp

これを、症状がどうにも辛くなったときに頓服として飲んだ。

が、効かない。中止。


今度は頓服として、ブスコパン。もともと腹痛の頓服として病院から処方されていたのだけど、これも胃腸の運動を抑える薬で市販薬もある。

www.ssp.co.jp

サクロンQと同じように辛すぎるときに飲んだ。

効く、けど。飲んで1時間後ぐらいに症状がマシになる気がする。しかも数時間は持続する。けれど便秘になるので便秘用の違う薬(マグミット)も飲まなければならず。症状が1日でMAXになる夕食後にだけ飲むようにした。

 

ここまでで、

ファモチジン 朝・夕
パンシロン 午前・午後
ブスコパン 夕
・マグミット 朝・夕

と、かなり薬の量が増えている‥。
それでも症状が続いているので、最後の手段で、あまり飲みたくない(不味い)やつを一昨日から飲みだした。

アルロイドG。以前、同じように増悪したときに病院から処方されたやつ。粘膜保護作用・止血作用がある。


これの何が嫌かというと、飲んだときの違和感だ。形態がゲル状なので錠剤や散剤のように一気に飲み込めない。口に入れた瞬間からねっとり絡みつく感じで飲み下すまで時間がかかる。味がしないのが唯一の救い。でも、口の中にスライムを入れられたみたいに気持ち悪いのだ。

なんか、効いた?気がする。これを飲みだしてから明らかに症状のない時間帯が増えた。持ち歩きの不便さと飲みにくさはあるけど、毎食前に飲むことにした。

 

というわけで、

(朝食前)
アルロイドG

(朝食後)
ファモチジン
マグミット

(午前中)
パンシロン

(昼食前)
アルロイドG

(午後)
パンシロン

(夕食前)
アルロイドG
ファモチジン

(夕食後)
マグミット
ブスコパン

 

良くないのはわかっている。病院に行くまでの辛抱。

ものすごく調子が悪いです

胃炎、逆流性食道炎で20年以上薬を飲んでいる。途中、飲まなかった期間もあるのでトータルでの服用期間はもっと短いと思うが、40歳を過ぎてからは切らさずに飲んでいる。昔は、といっても遙か昔、高校生までの頃だが、若かりし私は、風邪などもひかず、朝に夕に部活に精を出す健康優良児だった。それが大学生になって一人暮らしを始め、食生活が乱れたあたりからちょっと狂いだした。初めての胃カメラは大学4年生のときである。その頃から胃腸薬を飲むようになった。

でも、それこそ風邪を引くみたいに、いっとき具合が悪くなるだけですぐに直るようなもの。少なくとも、日常生活に支障を来すようなものではなかった。
今、2023年1月19日現在、胸焼けがひどい。焼けた石を胸にじゅうじゅうと押しつけられているような耐えがたい症状が1日中続いている。薬も効いていない。歳をとるとは、体のあちこちが摩耗していくことだと言うことを泣きそうになりながら感じている。

私の人生における最も叶えたい夢は「ピンピンコロリ」だ。でも、調子が悪いと途端に暗い気持ちになって、自分はこれから先、身体的な痛みや苦しみばかりの人生を送るのではないかと思ってしまう。
全人口のなかで「ピンピンコロリ」が叶う人間は、果たしてどれくらいいるのだろう。日本だけに限っても、それはごく限られた人数のような気がしてならない。
幼い頃は、お願い事をするときにきまって祖父母や両親が「家族健康でいられますように」と願うのが不思議でならなかった。神様にお願いを聞いてもらうのならもっといいことをお願いすればいいのに、と。むしろそれが叶うのなら他は何もいらないと思うようになったのはいつ頃だったが。目下、この胸焼けが早く収まってくれればいいと毎朝夕祈っている。

病院の予約は、来週の月曜日だ。

二次創作と終活

現在、衣食住以外で私がお金を多く使っているのが、動物(家猫が大半)とオタクだ。
おしゃれや美容、グルメ、娯楽などは、命の維持にさして必要なものではない。けれど、人によってはそれに結構なお金と時間を費やす。それこそ生きがいと言ってもいい。私にとってそれが、動物のこととオタ活なのである。

老後でも持てる生きがい探しをしようと決めたとき、新しい何かを始めることを真っ先に考えた。でも、既にあるこの2つにもその可能性はあるのではないか? そう思って今年はそこを掘り下げようと「創作を1冊完成させる」という2023年目標の1つが生まれたのだ。オタ活のほうのね。

私のオタ活は、推しの2次創作小説。主に腐っているやつだ。
このことを知っている人は誰もいない。
私の推しが、某Kポドル(過去)と某アニキャラなのは、家族や友人、同僚が知っている。私がやや腐った目線なのは、最も親しい一人の同僚が知っている。そこを拗らせて、腐った2次創作をしているのは、誰も知らない。

これが、老後でも持てる生きがいになるのか???
下のお世話を人様にやってもらいながら自分はよろよろとペンを持ち、腐った二次小説を書く‥。

なんか、なんか‥。

ありな気がしてきた。

 

ああ、でも。問題なのは今現在。この瞬間、私に万一のことがあったら、遺品整理する家族は私が書いたとんでもない小説を目にすることになるだろう。その方が大大大問題です。終活というのなら、さっさとその趣味を捨ててデジタルデータも全部抹消しなければならないのです。
けれどもオタ活は楽しい。まさに、今の私の生き甲斐だ。それをやめることは、出来ない。
なので、さっさとカミングアウトできるように。胸を張らずとも「これ、作ったんだ(ボソッ)」と言えるように。1冊、作りたいのです。R18作品を堂々とかざすほどの勇気はないので、全年齢向けのブロマンスで。

道のりは、遠い。

ライフワークを見つけたい

人生の後半について考えたとき、何か打ち込めるものがある人はきっと幸せだろうなと思った。
 
人生の前半は、自分の「生活」を作り上げていく旅だ。
人生の後半は、「生活」を味わう旅だ。
 
その、後半。
人生を折り返して手にした、日々を咀嚼する時間。そのときに、ただただ緩慢と時分をやり過ごしていくだけなのは酷く虚しい気がする。せっかく日々を味わうゆとりを得たというのに、その味わい方がわからないのは、とても勿体ないし味気なくつまらない。苦労して手に入れた玩具の遊び方を知らないことのようだ。
 
それに比べて何か没頭できるものを持っている人はどうだ。咀嚼する日々は味わい深く、それだけにとどまらず、そこで得た知識はまたさらなる血肉とさえなる。
これから人生の終末に向かって歩いていくという道すがら、その旅の心持ちは雲泥の差だ。
 
べつに人生の後半に限ったことではない。どの年代でも没頭できる趣味がある人は幸福だ。何かに、特に好きなことに集中している時間は、その人の思考はそれ以外の煩わしさから解放されている。日常の縛りから解き放たれて、思考は、宇宙の広がりのように無限に広がっている。
たとえその人に“幸せ”という自覚がなかったとしても、脳はある種の幸福感を得られているように思う。
趣味や生きがいがある人が、そうでない人から見たらキラキラと輝いているように見えるのは当然のことだ。
 
没頭できるものは趣味に限らない。家族やペットだって同じことだ。それらのために頭や体を動かすことを苦と思わず、また、そうすることで新たな活力が湧いてくるという人は多いにいる。それはもう、十分にその人の生きがいとなっている。
 
ライフワークを見つけたい。そこまで大げさなものでなくても、長年続けられるような、没頭できる趣味があれば素敵だ。
40歳を過ぎて人生の後半を強く意識したとき、そう強く思った。
 
これまで趣味が全くなかったわけではない。というよりもむしろ、好きなことはいろいろとある。読書、アニメ、登山、園芸、音楽鑑賞、紅茶、外国語、マラソン、などなど。挙げればキリがないし、どれも現在進行形とも言えなくもない。じゃあそれで良いではないかとつっこまれそうだが、しかし私的にはどれも決定的に中途半端なのだ。
 
確かに、それをやっているときは没頭している。本を読めばすぐにその世界の登場人物となり冒険が始まるし、自然に触れれば途端に思考は目の前の葉一枚の細胞から宇宙へと巡りだす。とても楽しい。とても楽しいのだが、自分からそれに手を伸ばすことが決して多くはない。最近は「与えられたらやる」というスタンスだ。平日の夜や休日など、時間が空いたときに自らそれらをやろうという気分になかなかなれないのである。果たしてそれは趣味と言えるのだろうか?
 
私の理想とする趣味は、もっと能動的なものだ。やりたいと、自ら手を伸ばすものだ。誰かに誘われるのを待っているのは趣味ではない気がする。待っているだけでは、それに没頭する時間など永遠に来ないかもしれないのだから。
 
ライフワークを見つけたい。
私は今、45歳だ。人生の折り返し地点にきている。始めるのが遅すぎた、という年齢はとうに過ぎた。つまり、もはやいつ始めても遅すぎるということはない、ということだ。
いろんなものに手を出してみようと思う。同時に、これまでやってきたことも検証してみよう。結果、ライフワーク探しがライフワークになってしまうかもしれないけれども。
 
楽しく老いたいというのは贅沢な目標だ。
 
けれども、誰もが思っていることだとも、思う。

断捨離 02 頑張った私に対する執着

前回、アイドルグッズをメルカリチャレンジした際に、使わなくなった韓国語勉強のテキストも出品。推し(Kポドル)の言葉を理解したいという気持ちから学び始めたので、ある意味、推しグッズでもある。
かれこれ10年近くは勉強した。検定試験も幾度となく受験して、俗にいう「中級レベル」までは到達したかと思う。
けど、推しへの熱量が下がるとともに勉強熱も下がり始めてしまい、今ではまったくやっていません。
けれど、この間に買ったテキスト類はかなりの数があって、今までも折をみて処分してきたのだけれど、まだ結構な数、ある。それこそ、また勉強したくなったら使うから、という思いでとってあるのです。

が、しかし。
その「また」がここ2,3年、来ていない。

もう、いいかと思いました。




書き込みなどがあまり無くて状態が良いものだけ出品。どちらも無事に新しい学習者のもとへ旅立っていきました。

けれど本題はここから。
出品した2つ以外にもまだ4,5冊残っているのです。

書き込みや見出しシールいっぱいでお譲りできる状態ではないものと、やたら高価な辞書。前者はもう捨てるしかないやつで、後者はそれこそ出品すればいいやつ。結局、今回も踏ん切りがつかなかった。それってやっぱり執着なのですね。モノへの執着というより、頑張って勉強した自分への執着。

愛着湧くまでに使い込んだテキストって、頑張った証拠みたいなもの。現実的にそのスキルを活かせているなら、それこそが誇らしい結果であり証拠になるのだけれど、そうじゃない場合は残るものが何にもない。褒めてくれる人もいない。自分が勉強した跡が残るテキストを見ては「あの時、私頑張ったよなー」って自分で慰めるぐらいしかない。

 

それってなんか、すごい虚しい。


今、こうして捨てられない自分の気持ちを書いていて。

残しておけばおくほど頑張った過去の自分がちらついて、さらに囚われるのだよな?という気がしてきました。

なんか、捨てられそう?


捨てる?

捨てない?